公務員

ありのままの町と人を愛する、真のナチュラリスト

野澤 隆生(のざわ たかお)

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野澤隆生さんの”へんあい”


「辰野町は自分自身なんだよね」


格好つけた言葉ではなく、野澤さんがよく口にする、等身大の言葉だ。

野澤さんは移住希望者や、町の力になる人材がやってくると、土日平日に関係なく、愛車のボルボで全力アテンドする。音楽が好きと聞けば、地元のアーティストに引き合わせ、古民家に住みたいと言われれば地域に点在する古民家をフルコースで案内する。

「ここまでしてくれるなんて!」。思いに寄り添い、その人のためを思った愛のある提案にゲストは感動し、一気に辰野ファンになる。実際に野澤さんのアテンドによって移住した人が何十人もいる(赤羽孝太さんを辰野町に呼び戻したのも野澤さん)。それは野澤さんにとっては仕事というよりもライフワークに近いかもしれない。最初は、野澤さん一人だったけれど、だんだんと仲間が増え、今ではみんなが野澤さんのように辰野愛を持って町を案内する光景が見られるようになった(自分もその一人)。


そんな野澤さんは町を案内する時、大切にしていることがある。それは「ありのままを見せる」こと。背伸びしたり、過度にアピールしてしまいがちだけれど、野澤さんはよく見せることを決してしない。「辰野町は変に背伸びしてデコレーションせずに、ありのままの自然を見せていきたいと思う。マイナスもプラスも伝えていくことによって、この町に本当に合う人が来てくれるから」。


そんな言葉通り、野澤さん自身も、いつどんな時も飾らない。「そこまで飾らないの?!」と心配になるくらい自然体。ありのままであり続ける。もしかしたら、ありのまま以外では居られないのかもしれない。


野澤さんは言う。


「おれってある意味、自然体であるという偏愛なのかもしれない。自分も、身の回りの人も、無理して自分を演じている状態が辛いんだ。だからどんな時もありのままでいることを大事にしたい。おれも、この辰野町も」


野澤さんはお腹が空いたら元気がなくなるし、美味しいものを食べるときはとことん美味しそうに食べる。退屈な時は、惜しげもなく退屈そうに「暇だー」と叫んで遊んでくれる人を全力で探し始める。楽しい時は、全力ではしゃぐ。


どんな時も自分の気持ちに素直でいる。


だからだろうか。野澤さんと一緒にいると、子供のように無邪気な自分が出てくる。そして、そんな自分が結構好きだったりする。


自分自身がありのままでいることで、周りも自分らしくいさせてくれる。野澤さんは自分の中の価値観に素直で、何ものにも縛られない、本当の意味での自由人かもしれない。


野澤隆生さんの”へんれき”

辰野町出身。幼稚園は伊那市の天使幼稚園。小中高は静岡市で育つ。


子ども時代は毎日が「戦い」だった。みんなに人気のパトカーのおもちゃを誰よりも早く勝ち取って乗り回した。昆虫を誰よりも多く捕まえ、誰よりもたくさんの昆虫豆知識を頭にたたき込み、誰よりも多く飼った。ミニカーは近所のおもちゃ屋さんではなく、もちろんタミヤ。それも直接タミヤの本社から直接仕入れた。


競争に勝ち続けるうちに、勝っても虚しいことに気がついた。「自分で独り占めしても、楽しくない」


勝ち負けではなく、みんなが楽しいと思えること、みんなにとって良いことはなんだろうと考え始めた。


中高は生徒会に入って、修学旅行の制服を自由化にしたり、理不尽なことをいう先生に対しては、「おかしい」と立ち向かった。(ジブリのコクリコ坂に出てくる風間俊みたいだと思った)


この頃には、自分の価値基準はかなりはっきりと確立され、社会の物差しで何かを選択することがなくなった。高校は特進だったが、大学は自分の物差しに従い、いきたい学部があった山梨の大学を選ぶ。


「今思えば、大学だけは社会的な物差しで選ぶべきだった。親父も“大学なんて関係ない”って言い張ってたけど、その後の就活とか普通に影響した。自分軸で選ぶことによる生きづらさを初めて感じた(笑)」


大学を卒業後、「利益を出すことに縛られる民間と違って、お金をもらって本質的に社会に良いことができるなんて最高な仕事だ」と思い、辰野町役場に入庁。持ち前の成果主義と、とことん追求する性格も相まって、行政職員という立場でできうる限りのまちづくり活動に邁進。数々のプロジェクトを形にしつつ、プライベートでも気鋭のアーティストを口説いてど真ん中ロックフェスを開催したり、移住案内に全力投球するなど、まちづくりをライフワークに生きる。


しかし、ある時、「自分は動き回っているのに、なぜ他のみんなは動かないのだろう?」と疑問を持つ。


そこで気づいた。


「誰も自分ごとじゃないからだ。おれがいくらプロジェクトを成功させても、それが自分中心であれば、町の活性化にはならない。地域のみんなが、自分のやりたいことをやって成功する。そういう状態を作ってこそ、町は活気づくし、自分も生きる。みんなが生き生きしているのをみて、おれも生きてる!って感じるんだって」


少し涙ぐんでそう話す野澤さんの姿を見て、自分もちょっと泣きそうになった。


そこに気づいてから今日まで、野澤さんは自分がプレイヤーになるのではなく、町の一人一人がプレイヤーになれるよう、支援することに徹している。今では、生き生きと自分のやりたいことをやるプレイヤーが辰野町に溢れている。


野澤隆生さんの”これから”

「町も人も自然体になっていったら嬉しいな。自分のやりたいことをとことん表現できる町でありたい。そういう人がもっともっと増えて、生きやすい町になったらいいな。辰野は日本のど真ん中にあってアクセスもいいし、町も里も、谷もある。いろんな個性が認められる場所だと思う」


「○○の町」というような固定的なイメージを町に持たせるのではなく、町に住む一人ひとりの自己実現が叶うような、多様性に溢れた町にしたいと野澤さんは考えている。


「いずれは辰野町が小さな町の成功モデルになって、最終的には日本全体も生きやすい国に変わっていったらいいな」


それを聞いて、“心地よい野心だな”と思った。日本を変えたいという言葉はすごく力強いけれど、すごくピュアで、等身大の言葉だったからだと思う。


自分もそうなったらいいなと、野澤さんの理想に共感したのだった。


 

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